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総合高校北にある南院跡地の一部 |
本山議員は喜多院周辺の「南院」「本地堂」跡地などについて一般質問しました。
同議員は南院跡地、本地堂跡地といわれる場所や同様の跡地などがあるのか、これらの由来を聞きました。
無量寿寺の南院跡地が存在
教育総務部長は、「新編武蔵風土記稿」には尊海僧正により再興された星野山無量寿寺には北・中・南の三院があったという記述があり、南院は明治初期に廃絶になったが、その墓石跡といわれる場所が川越総合高校の北側にあり、喜多院が所蔵する「喜多院境内図」などで確認できる。
家康の柩が安置された「本地堂」
続いて同部長は、徳川家康の没後、(三代将軍家光の時代に)久能山から日光への改葬の途中、喜多院大堂で法要が執り行われた。家康は東照大権現として神格化され、本地仏である薬師如来をこの大堂に安置したことから本地堂と呼ばれた。しかし、明治9年から12年にかけて、本地堂は上野寛永寺に移築され現在の根本中堂になっています。同様の跡地として閻魔堂跡地(斎霊殿内)仙芳仙人入定塚が喜多院近くに現存していますと答えました。
文化財説明板に反映する
本山議員はこれら跡地などを調査し無量寿寺の範囲など明らかにすべきだ、どのようにされるか見解を求めました。
同部長は、南院や本地堂などの史料は大変少ない。今後歴史的事実を調査し既設の文化財説明板に反映していくと答弁しました。喜多院境内の案内版(喜多院・市教育委員会連名)も今後、新設や更新の際に反映していくと答えました。
日枝神社の多宝塔古墳は大正13年の県道建設工事の際に、墳丘の一部が削られています。発掘調査では出土した円筒埴輪から、6世紀中頃に造られたことが明らかになっています。
同議員は日枝神社には古墳の由来や経緯についての表示がありません。これらの内容の表示を求ました。 同総務部長は今後さらに詳しい調査を行い説明板に反映していくと答えました。
喜多院周辺のパンフレットや冊子を作成
同議員は、喜多院周辺一帯が古墳群だったことや先に述べた無量寿寺の範囲だった当時の跡地、周辺に点在する本地堂跡地などが表示されたパンフレットの作成を求めたのに対し、教育総務部長は平成24年度市政施行90周年事業として、川越百景を選定した。喜多院周辺のパンフレットや冊子を作成しこれらをめぐるツアー企画等検討予定であり、こうしたなかに、反映していきたいと答えました。
また、歴史的風致維持向上計画区域であり、歴史的跡地を観光ルートとしての街路整備事業を新たに加えていくよう検討すべきだと見解を求めました。都市計画部長は今年度より実施する回遊路整備に向け、ご指摘の点も調査の中で検討していくと答えました。